第11章 から 第16章 まで

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第11章 築堤に関する諸説(乙の説)

第12章 乙説を採用せし所以 

第13章 服部長七の築堤着手

第14章 土砂採収の便

第15章 築堤工事中の暴風雨

第16章 澪留の準備 附貝俵の応用



第11章 築堤に関する諸説(乙の説) 

(乙の説は)・・・開拓面積現状派

  築堤は必らず旧堤防跡に限るとした理由は、堤防の地盤は既に十分固

 結しているし土石も幾分は残存している。

  そして、その地質は元来砂質であり、毛利氏の築堤は小砂利、または

 砂等を用いてるため粗朶を用いる必要もなく人造石工事には適合した場

 所である。


 甲の説である区域の切捨や異動となれば、土砂や石材を再び他に移送しなければならないが、土砂や石材を移すことになれば必らず干潮に合わせて船を据えて土砂等を積載するしか方法は無く、その工事にかかる費用と新たに土砂や石材の購い求めが必要となる。

 反対者の甲の説が言うように区域を縮小して築堤するなら、巨額の金を投じてこの新田を買取った意味がない。

 原形のまま築堤すれば従来の土砂や石材が有効に使え非常に経済的である。

また堤防が衝擣に耐えるか否かは築堤の巧みさであり、堤防の位置が悪い原因だと恐れる必要は無い。

 大手堤防を300間分を内陸内に移動したとしても格別波浪の衝擣を避けられるわけでもなく、300間、また300間と撤退し遂には新田の地面を無くしてしまうようでは、むしろ初めから新田事業に着手しない方がよい。

 甲の説の反対者が主張する第3号の一部切捨てと第5号の全部放棄に従へば、300余町歩の大新田を失い極めて不経済である。

 そして反対者が田面が低くて、たまり水が常に絶えないというが、現在は養魚税が多額に入っているが数年の後になれば塩分が完全に消滅するので全区域が良田となる。

 300余町歩を棄てて節約できる費用と300余町歩を残しで得た利益対照すれば300余町歩の収入をもって築堤に増資して、この新田を原形のまま保存し永く国利国益を計ることは当然のやり方である。

 さらに人造石の排斥論は真に価値の無い偏見で、その例とされた横浜築港は「コンクリート」を使用していて人造石とは全く性質が異なっているので、例とする価値が無い、また高浜新田は人造石の改善前の発明当初の試験中の物であったため、これも例とはならない。

 人造石がいかに偉業を果たしつつあるかは、常に猛浪激波が絶えない佐渡港の工事に関する御料局の証明や、厳しい寒気にさらされている但州の生野銀山の水溜工事に関する同局の証明、及び広島県の宇品港等における実況にて明らかである。

 しかも当地方は気候温和にて波涛も北海に比べれば大変穏やかであり、人造石の制作に必要な石材は5~6里の近にあり、その種土も三里以内の海辺にあり、石灰セメント等も二里内外の地で大量に製造されつつあって、この地こそ人造石を使用するに絶好の場所である。

 

 なお、諸方の土木師等数十人が議論に参加したが、意見の大体が採用に値しないので記載を割愛した。


第12章 乙説を採用せし所以

 甲説の区域を縮少して築堤位置の変更をすることは、断然排斥することになった。

 その理由は、概ね乙の説の解説と同じで、この新田は比類稀のない大新田で、その大手堤防の維持は非常に困難なことは、毛利氏が巨万の金を投じてもなお達成できなかったことで明らかである。

 その困難を初めから覚悟して購入したわけであり、


今更何も狼狽するものではない。

 結局、大難に立ち向かって見事に堅牢な築堤を完遂することを目的とした。

もし甲の説に従い、面積を縮少すれば折角の大新田も、名声も失うことになるので、甲説を排斥した。

 また人造石工事の採否に関しては既に新田購入に先立ち、予算を編製した時に採用することに決定していたが、非難の声が高く、また忠告するものも続々とあって、家族等は大いに心配し、軽率に判断しないよう求めてきた。

 更に人造石工事の実地ついては精細な調査を実施の上決定する根拠を集めることを理由として、明治26年5月中旬に服部長七と共に再び広島と愛媛の両県の人造石工事を実地検分をした。

 私は前もって服部長七に相談したが、それは新田堤防は1割、または1割5分等の種々勾配にするつもりだが、毛利新田は1割半の勾配こそ適当であったが、風波が激烈な時は湖水が超越する心配があるので、堤防の上部における勾配を5分内外にすることと、宇品や三津浜の人造石が汐水のため、年々腐敗の心配があり、これに対しセメントで目塗をすれば腐敗の心配は無いし、また外見も大変見栄えが良いと説明した。

 服部は大に賛成して、この実地検分で人造石が完全に波涛に耐えて永く維持できると認識し、これで人造石採用に決定し、該当工事の監督を服部に一任した。

 一時乙の説の採用に反撃をぶり返す者も多かったが、工事が進むにつれて非難する声も鎮静下した。


第13章 服部長七の築堤着手

 新田の大手堤防再築工事に着手したのは、実に明治26年6月上旬であつた。

 先ず第一着に大手堤防の中央部にあった旧堤防の残存部分を工事本部の場所と定め、新に屋舎数棟を建造した。

 堤防全部を分割して10区とし、その1つは本部のある所とし、他は1区毎に台場を築き、これを作業の拠店として工事に必要な屋舎を建て


石工人夫を配置して一斉に築工することにし、そして台場は後日そのまま堤防とするように設計した。

 諸区の内、海底が最も深い所3ヶ所を選び、ここを澪留の場所と定め、1ヶ所は延長60間、他の2ヶ所は延長各25間で、澪口は人造石で取り囲み杭筵を使って左右の防障に充填し、澪敷は幅20間として、これに粗朶蒲焼を布設し、その上に砂礫を詰めた叺、及び石籠を累積する方法をとった。

 その設計が余りにも簡単だったので澪留が完成するまでの維持が困難だと心配しているものが多かったが、ことごとくその設計を採用することとなった。


第14章 土砂採収の便

 前章の設計により、各区の台場に石工人夫を配し、必要な石材や石灰セメント等、総ての材料を準備し、この工事に要する土砂を採取する場所として、渥美郡童浦村大字浦村地先にある官有山地が、最も適当であることを認め、払下をその筋に請願したら、愛知県庁において直にその願意を聞き届けられ許可された。

 この官有地は大手堤防工事場から、わずかに15町途と近い所にあり


工事に必要な砂礫を採取するには非常に便利であり、かつ7~8月にまたがって天災が多く起きる時期であったにも関わらず起工後は晴天が続いたばかりではなく、最も恐れていた西風が吹荒れることも無く、非常に好条件であった。


第15章 築堤工事中の暴風雨

 工事は着々と進行して成工の日を待っていたが、明治26年8月下旬になり突如としてうす暗くなり、怪しい雲が墨を流したようになり、すさまじい猛雨が怒涛を巻き込んで身の危険を感じるほどとなった。

 本部の詰員を始め各台場にいる石工人夫等は皆顔色を失って工事はもちろん、食事さえできる状況ではなくく成り行きを心配して過ごした。

しかし、翌日の朝方になって、いきなり雨がやみみ雲が散り


朝日がおぼろげに波に輝き渡った時には、人々は安堵し再生したような気分になった。

 各所の被害を調査したが不思議なことに軽微な破損も認められなく人々は全員が驚き喜んだ。

当新田の地形は東側と北側は陸地に接していて、南方は一哩を隔てて童浦村外数ヶ村に近接しているが、西側の一方は遠洋に臨んでおり、ここに西からの強風を受けると多少の損害を見ることになる。

 南側からや北側からの強風にあっても災害に会うことは無く、当日の暴風雨は実に東より起きて南に去っていったため被害を免がれた原因と思われる。

 当新田築堤工事の進行上で最も恐れるのは西風であり、特に第4号大手堤防の延長は2,100間と長過ぎるため冬季になって西風が起るとさ細な作業をすることもできず、一隻の船を寄せる手段もないため、風が多くなる時期の前に工事を完成する必要がある。

 即ち明治26年9月中旬までには、是非とも澪留を終らせなければならず、日々人夫を督励して自らも速く完成するように努力したが、当時の状況は従来の樋門が不完全であることを感じていたが改善を施す余裕もなく口替えや修繕をする程度に留め、第5号、第1号、第3号の各堤防は嵩上げの工事を施し、いよいよ同年9月17日に大手堤防の澪留を決行することにした。


第16章 澪留の準備 附貝俵の応用

 大手堤防の澪留については童浦村大字浦村の官有地より土砂を採収し、小砂利を入れた叺(かます)を造って運送していたが、牟呂に1ヶ所の貝山(貝塚?)があり、この貝山に堆積した貝殻を収拾して俵装にした物を土俵の代用に使うこと考えた。

 貝俵は普通に使用する土俵に比べ重量は軽く一人の肩に2俵担げるので大に運搬の手間を省けるのと、土俵は海底に入ると波涛のために


徐々に洗い去られる心配があるが、貝俵なら永く海底に留まる利点がある。

 つまり、土砂採収と貝俵との二つの利点を使い分けることが、実に本工事に適した方法なので、これを利用して澪留工事の準備をした。

 また人夫の人員確保は付近の各村民が確保できるし、この地方の習慣として貧富の差の関係なく老若男女が工事に従事することを嫌がらないので、非常に好都合である。