第17章 から 第22章 まで

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第17章 澪留の光景 

第18章 澪留餘况

第19章 防囲工事及人造石工事

第20章 第三号及第四号堤防樋門工事 

第21章 木造樋門を人造石に改良せし理由

第22章 牟呂用水に関する交渉事件



第17章 澪留の光景

 3ヶ所の澪(深さは満潮で約9尺余)には3尺毎に杭を打立てて、これに横布を結着して作業の開始を待った。

  澪の中央部には工事指令長の出張所を設け、その左右には紅白の旗を樹立した壮観な構えの中、指令長は服部長七である。

 澪の1ヶ所目は25間分を明治26年9月16日午前4時30分より着手し、同6時になって無事に澪留を終了し、次の作業も確実にするため


礫砂を運搬した。

 

 翌17日は60間(109m)、及び25間(45.5m)の2ヶ所の澪を一挙に築留する日であった。

そのため、当日は服部長七を初め係員等は大に勇気を奮い起こし、午前2時より2ヶ所の澪口の両側にて勢いよくかがり火を燃した。

 数千の人夫は紅白の手ぬぐいを頭に巻き、その色で甲乙の両部隊に分かれ開始の太鼓が鳴るのを待っていた。

また海上には無数の船舶が各小石入の叺(カマス)を積んで澪口に向かう準備を整えていた。

 その中、指令長は予め用意していた神札神幣を中央部に樹立し、賞金若干と大きく書いた標札を付けて声を張り上げ、「両部隊の内、早く中央まで築止召した方を勝としてこの賞金を付与するので一同相競って就業せよ」と言い放つと人夫の歓声は海を震わせ意気が山を動かすようであった。

 服部指令長は更に予備人夫を若干準備しており、これに紅白の手ぬぐいを各二筋を交付し、指示として、「両部隊の内、一方が敗れるそうな傾向があれば争いが起る恐れがある、十分注意して私の指揮の下で遅れている方を援助して両部隊が同時に中央に達せるようにと」指示していた

 数千の人夫は、満を持して開始の太鼓が鳴るのを待っていたが、やがて(明治26年9月17日午前4時30分になると開始の合図である太鼓の音がとどろき渡った。

 両部隊は鋭意作業に着手し、互に負けけないとの勢で難なく築立していき、内外に待機している船舶が積んでいた小石入の叺で築出し、見る間に工事が進捗した。

 午前6時30分になると両部隊とも均しく中央に迫り、機一髪の勝負がつくと思われた直前に指令長より直ちに作業中止との号令が下つた。

 数千人の人夫全員は驚きと迷いで茫然としたが、この時指令長は神札のある所に近づき、今迄一本の神札神幣、及び賞与と思われたものが、たちまち各二本に分れ指令長はこれを持って一組づつを付与した。

 続いて指令長から、「全員良く励み成績の甲乙つけがたく、勝敗を争う必要もない、宜しく速かに休息して労をねぎらうように」と指示が有った。

 この奇抜な策と機転の利いた対応は、中央部に設けておいた澪留の予備人夫の働きによるものが大きく、工事の完成につながった。


第18章 澪留餘况

 元来、澪留の作業は海上にて重量物を運搬し、上下が必要とするため干潮字に合わせて急そぎの工事となるので、非常に危険となる。

 澪留工事をする時は常に多少の死傷者が出たり、品位の欠ける人夫を雇っての工事応援となる場合は、喧嘩や騒動が起きることがことが多いだけではなく、毛利氏が澪留工事を施行した際のように多数の死傷者を出した場合を恐れ、澪留の当日は警察官が出張して大々的に警戒したが、


少しの異変も無く警官も驚くほど無事に終了したのは珍らしいことであった。

 なお、この工事があることを聞き、実況を観ようとして東京、大阪、その他各地よりこの分野に興味のある熱心な人々が多く集まってきたが、全員が服部の経験豊かな知識や計画を褒めたたえると共に、この事業の取り組みが大に参考になったと喜んでいた。


第19章 防囲工事及人造石工事

 大手堤防の3ヶ所の澪留は実に思いもよらないほど好成績であったため、成功に安心し知らず知らずに怠慢するのはありがちなので、なお一層監督を厳しくして速く完成するように準備して、陸上においては土砂の持上げ、海面においては幾千艘の船舶が築堤材料を輸送してきた。

 熱心に作業に励み明治26年11月に至って満潮の時において上2間を余すまでに築堤し囲い込むことができた。


11月は例年なら暴風が吹荒れる時期のため到底工事を施行できないと

 以前より心配していたが、以外にも風力は和で海波もかなり平静だったため防囲工事も故障なく施設することができた。

 しかし冬から春に向い風波険悪の時期になり、第4号堤防の諸工事をするのは難しくなったので一先ず見合せ、第3号堤防の人造石工事に着手し、旧堤防が残存する部分の修築は外面を人造石にて修築する。


第20章 第三号及第四号堤防樋門工事

 第3号堤防の人造石工事に着手すると同時に同堤防にある5号樋門の工事にも着手した。

 この樋門は第3号堤防の西端にあって総数5ヶ所の内、3ヶ所は幅9尺で左右の2ヶ所は幅6尺5寸で、中央のものを船通用とするこの工事は翌27年3月に至って無事竣工した。

 この樋門より西の第4号堤防の南端に達する堤防の延長は15間とする。


 以後、引き続き第4号堤防の樋門工事に着手したが、この樋門は豊橋附近の南にある1ヶ所の排水の流調整門は幅6尺5寸で樋門上流の南北に同幅の内、流調整門が各1ヶ所あって延長1里余に至る大手堤防の中央であった。

 そのため船舶運送が容易になるよう樋門の門頭を海面に接するまでを扇形にして次第に広げその扇形の内部に船囲い、荷物揚げ場、並に色々な物品の倉庫を新設して海運上不都合が無いようにした。

 また、33年になって第5号堤防の北端に樋門を設置したが、これは海上より肥料を運搬する船舶が航通とするためである。

 

下に当新田の各堤防の樋門総数22ヶ所と内杁2ヶ所の内訳を記載する。

   第 一 号   用 水 捨 杁          壱

   同       六 尺 五 寸 船 通                       壱

   第 二 号   九 尺 船 通          壱

   第 三 号   二 間 旧 杁          壱

   同       六尺五寸、九尺、九尺

           九尺、六尺五寸    通船    五

   第 四 号   九尺、九尺、九尺

           九尺、六尺五寸    通船    五

   同       北六尺五寸、六尺五寸

           南六尺五寸、           参

   同       内 杁 六尺五寸、六尺五寸    弐

   第 五 号   七尺五寸       通船    壱

   桝   形   六尺五寸、六尺五寸

           六尺五寸             参

   同   南   六尺五寸       通船    壱 

上記は全て人造石にて築成した。 


第21章 木造樋門を人造石に改良せし理由

 当新田の樋門は毛利氏が築造の時は木造だったため潮虫のために腐蝕させられ3ヶ年内に口替と称した表口の34間程の取替修築が必要なのと、7ヶ年以内に総伏せ替えの必要があった。

 総伏せ替えの時は海面に月の輪と称して樋門の前面海中に仮の仕切りを造り海水を堰き止め、本堤防を掘割する時の代わりとするが、これが極めて危険な工事で、もし工事中に風雨や波涛が起ると


 ただ一つの仮の仕切りであるため防御が最も困難である。

また、このように度々堤防の掘割をしていては土砂が凝固する時が無く、脇詰より海水が吹貫く危険性ががあり、実際吹貫く事故も少なくない。

 また水落の利害に付いても樋門内に数十本の蛇柱があるが、激しく水流の勢いを妨げるため水落ちが十分ではない。

 特に木材が高価な時代であり木材では多額の費用になるので、人造石の樋門の場合なら、その仕様は表戸と裏戸の下には鰻止めと称して6尺四方を深く掘割りし、人造石で埋立てその上に敷物を張って築造する。

 また両腹には鍔と称して一方4尺づつ3ヶ所に人造石を土中に築出すれば敷物、又は脇詰めの吹貫ける心配は無く、左右の堤防法りも人造石で造れば堅牢無比なものとなる。

 また、裏戸は常に棒上に置き表戸に障害が出た場合でも、常に裏戸が防水の備えとなっている。

また、修繕としては3ヶ年毎にセメントにて人造石の目塗をするだけで良く、樋門内に障害物が無いため、木造の樋門の9尺よりは人造石の7尺樋門となるので水落も滑らかに流れるので23ヶ所の樋門、及び牟呂用水の樋門工事は、ことごとく全てを人造石に改良した。

 当時の愛知県庁においては、その成績について十分調査をした結果、非常に良好なことを認め県下にある樋門の伏せ替を必要とする場所はことごとく人造石で改築した。

 また、各県からも実査のために視察に来る者も多かった。


第22章 牟呂用水に関する交渉事件

 牟呂用水については前にも記述していた通り、毛利氏所有の頃より八名郡、長部村大字八名井、及び加茂金澤の3ヶ村へ引水となっていたが、未だ双方間の契約前なのに、3ヶ村は断りも無く勝手に杁樋門より引水していた。

 明治26年8月の出水の際に牟呂用水の元杁樋門、及び井堰とも全て破壊され漂流したことにより三村はもち論、当新田も一時灌漑に困り果てていたが加茂村は理不尽にも用水路中宇利川間の川を自村で遮留していた。


 当方の利益を侵害しており許すべき状態ではなく直ちに人を加茂村に派遣して談判をしたが、加茂村は頑強に非を認めないばかりか、談判の結果も出ないのに村民が大挙して当方専用の第7号(牟呂用水の樋門第7号には当方の杁番小屋を設けており同号以下の最も重要なもの)樋門も自村の所有だと主張した。

 これはじっくり対応してられないので、その筋に告訴することを協議したところ加茂村も自分達が不利だと認め郡長より調和の旨を申込んできた。

 当時破潰し漂流の災難にあった井堰、及び元杁樋門等は大きな災害にも耐えられるよう十分の工事を施して復旧することに決めた。

 復旧は決して容易な工事ではなく、かつ多大の工費が必要となるばかりではなく前記のようにわずらわしいもめごとの恐れもあるので、他の相当な方法を黒川某氏に相談した。

 同氏の実地検分より、この復旧工事をするには必らず巨万の金が無駄になるだけでなく、その後の修繕等の年々支出する金額も少ないものではない。

 むしろ豊橋附近で豊川から分水し新田用水とすれば水路も大きく短縮でき牟呂用水に比べれば僅か6分の1なるので、この際牟呂用水を棄てて新水路を開削の提案があり、直に新水路の測量を試みた。

 それを聞いた3ヶ村は再び郡役所を通して種々の墾望をしてきたが、当方においては素より公益を重要視しており、あえて争い事は好んでいないので即ちに新水路開削の計画を止め、速やか示談を受け入れ双方の間で引水の杁樋々門の寸法等に付帯條件を定め約定書を交收した。

 これをもって直に該井堰杁樋等の復旧工事に着手することとなり、そして樋門に属する分は服部長七に井堰に関する分は高取卯之助に任せることとした。

 高取もまた、服部と伯仲する土工の老手でたゆまぬ努力をもって工事を進め、明治27年6月上旬をもって充分な成工を見ることができ、その年の田方植付の引水に利用でき自他とも認める満足できるものであった。