第23章 から 第28章 まで

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第23章 新田内工事の設計

第24章 新田内工事の困難

第25章 堤防粘土築立及法先捨石

第26章 新田成工式及記念碑建設式

第27章 大日如来及観音の安置

第28章 名称改正及字割



第23章 新田内工事の設計

 明治26年10月、新田内の用水路新開のことに関しては種々の説があったが、結局他の諸新田を実地視察調査の上、その利害、及び便不便の研究が必要と考え、著名な各新田の巡視をして大に参考となった。

 そして自ら用水配置の指揮をし同年11月より該工事に着手した。

新田内部の地均らしや穴埋め等は相当な日時を要する作業だが、冬季は強風が多いため土砂が飛散して大に作業が妨害される等で、


27年6月の田方植付け時期の前で、やっと地均らしが完成したのは300町歩程であった。

 同年11月になり、田圃の区分と再度の地均らしに着手し、数百人の人夫を使用し、ひたすら工事の進行を計ったが、区域がすごく広いため容易な作業ではなかった。

 中でも新田内の大用水東手である第6号より第9号用水までの10余町歩、及び西手70余町歩の地均らし工事に併せ古川通りの埋立工事は人力だけでは捗らないので機械力を借りるべきだとの説が起きた。

 協議の末、端西軌道数マイル、及び木製軌道等を購求し、人夫数百名を使役し、7ヶ所に分けて作業し地盤の低い所には、地盤の高い所を削った土を移し地盤を高くする等力を尽して完成を急いだ。

 しかし、何しろ土地が広すぎて作業は容易では無く、この工事途中の明治27年6月に至り、植付の時期が迫ったので、同年度の工事は一先ず中断し、直ちに田方植付に着手することになった。


第24章 新田内工事の困難

 前章に記述したように地均らし、及び用悪水工事は耕作にとっては長期間にわたり大きく影響することなので充分調査した結果、田方1筆を1町2反歩と定め、すなわち60間の2方に3尺の道を築き、また他の方には用水路と悪水路の両堤防を道路(巾9尺又は6尺)に利用する。

 しかし広い砂漠のような土地のため、強風の時は土砂が吹起されて用悪水を埋めてしまうし、道路を吹き崩すため人夫も工事を


中止することがあった。

 特に塩分除去の目的のため時々用水を流通する必要があったが、塩分が多い土質なので芝草の育成が充分でないため水路堤防、及び道路の砂が固定されず吹き飛ばされて破損した。

 また堤防内部に沿う汐除きの百数十町歩の広範囲にわたる該内法の先へ浪が打寄せ堤根を破壊されたので再三修築の末、法り先へ粗朶と杭を打立て二重に粘土を張ったことにより、その後は芝草が育成し充分な防障となった。

 また3~9堤防も同様に再築をしたことにより、ようやく破壊の難を免がれるようになったが、この工事は極めて困難であった。


第25章 堤防粘土築立及法先捨石

 当新田の各堤とも毛利氏の築いたものは高さ1丈8尺に過ぎないので強烈な暴風により波涛が崖を侵食するような激しい時は、常に堤防を超えて内部に浸潮する恐れがあるので、各堤とも全て以前のものより6尺を高め、都合2丈4尺とした。

 しかし人造石はその表面が極めて滑らかなので大手堤防では、ひっとすると衝濤として来る大波は人造石の表面を滑って


堤上に昇ることを恐れて1丈8尺を1割半の勾配とし6尺を5分勾配とすることを服部に相談すると氏も大いに賛成をしたので直に実行した。

 以後、暴風の時に際し実地の検地をしたが浪は1割半の勾配まで昇れても、その上6尺5五分勾配の処に至ると回転し、次に寄せて来る涛と堤防から離れた6~7間の処で衝突し、その都度海水数丈の高さに飛騰し風力がこれを吹き付けて堤防を乱打する。

 その勢いがにわか雨よりも激しいので、数年後に堤防の馬踏を4尺5寸内にひかえ3尺の高上げをして2丈7尺の高堤防した。

 以来満潮の時でも上1丈8尺を余し、いささかの心配も無くなったが、これは大手堤防のみに限り、他は必要がないので2丈4尺に止めた。

 堤防維持については最も注意が必要なのは法り先が激波により破損させられるか否かである。

明治27年冬、西風が最も激烈な時に堤防の法り先にどのような変化がもたすかを検証したが多少波浪に掘り取られた痕跡あったので、堤防をより堅牢にする設計でこの心配を取り除くため各堤防の法り先に捨石を重ね積ね(巾5間以内、厚3尺以内)、砂利石をもってその間隙を充填する方法に行き着き、明治28年6月から作業に着手した。


第26章 新田成工式及記念碑建設式

 明治29年4月15日をもって新田の築工がようやく竣成を迎え成工式を行い、併せて紀念碑の建設式を挙げた。

 当日の来賓は榎本農商務大臣を初め、愛知県知事、豊橋十八連隊長、その他文武官、県会議員、新聞記者、県郡農会員、及び工事に関係する人々等、およそ2千余名であった。

 大臣を初め、祝詞演説等が数多あって非常に盛況を極め、


また酒宴、その他余興の設備もあって会場には歓声が満ちていた。

 なお、紀念碑には下のように(下の画像の左側)書かれている。

ここに特筆することがある。

 当日の主賓である農商務大臣の榎本武揚氏は新田の巡覧に際して人力車を用いず徒歩にておおよそ2里余の堤防、及び田の巡視は歩行され、工事上、及び農事上に関する種々の談話、また尋問されたが、少しの疲労倦怠の様子も無く熱心であったことに感嘆されられた。


第27章 大日如来及観音の安置

 堤防の巡検に手抜きがあると、歳月の経過にともない往々にして破損を見過ごしてしまうが、当新田のように堤防の延長が総計数里と長いと日々巡検警護の作業者を配置することも容易ではない。

 とはいえ巡検警護を配置しなければ、ある日突然に風波が険悪になったら破損する恐があるため、解決策として次の案を実行した。 

 新田堤防の中で最も長いものは第4号、次が第3号と続いており


第4と第3合わせて延長3,330間なので、この堤防上に100間づつの間隔で33体の観世音菩薩の石像を安置し、起点には大日如来の石像を安置するこことすれば、新田の住民で参詣巡拝する者が堤防に傷が生じたのを見つけた時にこれを報告する方法をとった。

 なお、これによって堤防を区画すれば、例えば何拾何番観音の右、又は左に何々の事があると明確になり、堤防の中の出来事を的確に把握ができ、人を派遣する時に最も便利であり、かつ自然に住民の信仰心を興起できる利点がある。 

 この計画を実行すると聞いた者が争って賛成し、寄付の申込みが多く、遂には大日如来を初めとした33体の観音の全てが信心深い者の寄附で安置することとなり、以来住民自から信仰の心を起し、老若男女が農事の余暇に参詣巡拝するようになり、堤防が住民でにぎわった。


第28章 名称改正及字割

 当新田は以前毛利氏が築工の頃は吉田新田と呼ばれていたが、都合上、神野新田と改める必要があると牟呂村は明治28年6月14日、大崎村は同月21日、磯邊村は同月22日をもって各村会を開き、多数の賛同を得て名称改正の件を可決した。

 このことを受け各村より直ちにその筋に出願し、総てが認可され、以後は吉田新田の名をやめて、神野新田と呼ぶことになった。


 又、当新田は総面積1千100町歩と広大であるため、一般的に考えれば 少なくとも管理上は数十区に分割する必要があるので、多くの人の意見をふまえて次のように区分した。

  牟呂村所轄  いろは48文字をもって48字に区割りする、外に字会所前

  磯部村所轄  宮前、品井潟、中道東、水神下、中洲、江縁の6字に区割り

  大崎村所轄  沖ノ島、中ノ島の2字に区割り