第33章 から 第38章 まで

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第33章 農事の開発及奨励

第34章 牟呂港の前途

第35章 塩田の開拓 

第36章 既往十年間の米作

第37章 養魚税の収入 

第38章 牟呂用水流材の便



第33章 農事の開発及奨励

 当新田の小作の中で他国より移住してきた者は、出身地の習慣により耕作をするために潮田に適さない耕作をする者が多い。

 また牟呂、磯邉、大崎、前芝等より来た小作人に従事する者は、海浜に生まれて漁業を主として農事に詳しくない者に従事するため、2者共に新田耕作がうまくいかないことが多い。

 そのため遠近を問わず経験豊富な農夫に潮田耕作の意見を求め


これを実地に試験して小作人を教導し潮田に合った耕作を開発した。

 同時に資本に乏しい小作人には耕作地に十分な設肥ができないことを心配し、一手に肥料を購入し、小作人にこれ分配貸与して、その年の収穫時期に返却させる方法を執った。

 それから農事奨励のため全小作人の中より、農事に勉励の者50名を選定し、更にこの50名を上中下の3等に別けて、農具等を賞与し、数回の受賞者には特別賞与を授ける方法を確立した。


第34章 牟呂港の前途

 当新田の位置は深く、三河湾の極めて奥にあって背後に豊橋町がひかえているため、この地を開いて船舶の停泊の便利が良くなれば旅客往復の一大基地になる。

 そのため牟呂用水の柳生川と合わせて一つとし、海に達する所の延長約800間の所を広くして、しゅんせつしと修理をして船舶が柳生川まで遡れるようにした。


 またその港口を一層広く方形に修築し、和船はもち論、汽船とも安全に停泊できるように改善し、ここの所を称して桝形と呼んだ。

 以後は海運業者の着眼する所となり、当港より田原に達する定期航路、及び伊勢国神社港へ達する定期航海等が開始され、風帆船と汽船との別なく、帆柱を連ねて港内に停泊するようになり遠くの各郡からも参宮の参詣者、及び商品などの往来集散が非常に盛んな川筋となった。

 さらに陸路海に達する便利を得るために、右川筋に沿って港口に至る第1号と第2号堤防の上に砂礫を設布して通り道に充て、また港頭の繁栄を計るため桝形内に家屋、及び倉庫を建築した。

 以来、牟呂港の名声は次第に世に高まり、前途多望な良港となった。


第35章 塩田の開拓

 当新田内の東南の一部「りぬるを」の各字は築堤後3年を経過しても塩分が多く残っているのと、この部分の地質はほとんどが薄砂であるため当時は地質改良の研究中で、明治29年の末なって、この土質を肥沃にするのは至難の事であり、多額の費金を投じても、果して効果が出るか否か疑問であった。

 そこで、この際目的を変えて塩田を開拓するのはいかがかと考えて、以来塩業の調査に着手し、30年2月に小さな区域で試験したが


その成蹟は悪くは無かった。

 そこで3地方の小規模の塩業にならって次第に開拓をしたが到底広漠な塩業専門地として不適当なことを悟り、30年の夏、塩産地である赤穂、味野、松永、竹原、三田尻、さらに四国各地を巡視した。

 この分野を徹底的に調査して、遂に赤穂、味野の2ヶ所より熟練の者を招いて十州の塩業にならい工事を改良したが、結果はうまくいかなかった。

 31年の春に竹原、松永の方法に一部の改良を加へ百名に近い従業者を雇い、これに地方の働き盛りの作業者を交え塩田を大きく拡張し、30町歩余で浜数は第1番より第11番に至る11浜を開拓した。

 この工事中、31年6月、及び同年9月の大風雨に遭遇し地盤はもち論、建造物を破壊させられ、以来年々多額の損害が生ずるのみで永遠維持すべき事業ではないと思い、35年の事業年度をもって一部を廃減することになったが、その要因は 次の通り。 

 

  一.内地の塩業との違いは年々その度を高めたが、1つの湾の塩業の隆盛では外国からの大規模な

    塩輸入には勝てない 

 

  一.作業者の多は遠隔地から招いたので旅費はもち論、給料の割増が必要で不経済であった、

    また新田の小部分を塩田としたために他の大部分の農作地に害を及ぼし、塩分除去の目的に反する

    だけではなく、たびたび汐水の被害を受けることが多いので、完全に隔離した工事をしようとする

    と、その工費は数十萬圓に及び、到底支払えるものではない。 

 

 

  以上列記の理由により一部縮少の分は直ちに農作地に復旧したが、畑地であった所は既に幾分の植付がされており、その成蹟が良好なので、水田でも大に有望であるとの期待で農民は争って作付の希望を申入れてきた。 


第36章 既往十年間の米作

 明治26年の夏の田方植付の反別はおおよそ80町歩余であったが、新田受渡を完了した時は時期が既に過ぎていて十分な耕作をする日数もなく、地均らし等の手配も思うように進まない上に同年8月は未曾有の豪雨があったため豊川筋も非常な出水で、牟呂用水路の元杁や井堰等がことごとく流失した。

 新田内の潅水の需要も次第に増加したが、残念ながら当時樋門工事中は水落が非常に悪いために植付けた稲苗が水中に没して腐敗することがある。


 また快晴になれば元杁や井堰が流失した後なので、新田は全く用水を絶たれて稲が枯死するものが非常に多く試作さえ十分ではなかったが、刈入の結果は、おおよそ1,000俵の収穫があった。

 明治25年の大被害後初めての耕作で特に前述の被害に遭遇しているにも拘わらず多少の収米を得たのは好都合であった。

 明治27年度においては同年6月に地均らしが完成した300町歩余を確保し、ここに稲苗を植付けたが不幸にも日照りと塩分により至る所がほとんど枯死し、総収穫はおおよそ4,000俵であった。

 明治28年夏の田方植付は総反別おおよそ550町歩にて6月22日より着手したが、何分地均らし工事が遅れたため自然植付も延び延びになり、ようやく7月10日に及んで全ての作業が終了したので、暇を与えて小作人一同を休業させた。

 植付が遅れたため到底十分な収穫が難しいと思ったが、外幸(水路?)に土用水(用水?)の不足感も無かった。

 これは雨により灌漑が十分だったのと最も嫌っていた塩分を除去してくれたため予想外の豊作となり、総収入おおよそ8,000俵に上り非常に好結果であった。

 明治29年より35年に至る7ヶ年間の作況は大きな変化が来て、27年中の田面の高低を平均するために作った畑はこの期間内に次第に塩分が除去され、麦、大豆はもち論、いろいろな野菜の生育の結果も良好で、中でも里芋、西瓜、瓜は新田の特産として地方に価値を認められ、甘味も育ちも共に優秀であった。

 米作の景況は既に述べたように年々ほとんど一定の割合で収穫が増加したが、30、31の年は風害、又は気候の不順により悪い統計となったが、その後は常に予定の収穫があり、35年は非常に天候不順であったが総収穫5,500石を見るに至った。

 しかし、なお一部は多少の塩分が残り、他は塩分が除去されたとはいえ肥料は4~5年間に収穫物に吸収され、今は少しの肥料分も残ってないので堆積肥料をもって地質を改良した。

 また両毛により次第に地力を増す時季になっていたので34年にこれを推奨し35年は収穫後100町歩弱の冬作より麦、菜種、馬鈴薯の作付をした。

 当時、これらの植物により田面から生産される収益は少なくなかった。 


第37章 養魚税の収入

 毛利祥久氏所有の時の明治23年~25年までの3年間は3,700円の養魚税で請負人と契約したとは前記した通りで、当新田を譲り受けてからは、明治26年9月から31年に至る6年間を期限と定め養魚税金は、21,000圓となった。

 高くなった収税を以前と比較すると毛利氏の時は養魚税は1年につき1,230圓余に当るが、譲り受け後は、1年につき3,500圓に当り、ほぼ1対3の割合で高くなっている。


 なぜ、このような大きな差になるかを養魚請負者聞くと、堤防が堅牢な場合と薄弱な場合とでは利益と不利益に大きく分かれるとのこと。

 毛利氏の時は養魚税は安いが不幸にも再三破堤の被害に遭い養魚池は海水と連通したため請負者は非常な損耗を被むったが、譲り受け後は各堤防工事とも堅牢に築工されているので、以降は軽微な破損も発生なく、人々はいずれも安堵しており、納得して多額の養魚税を納めている。

 32年の春、第2期契約に際しては希望者が続出し競争の結果32年より37年に至る6年間を36,000圓と高額で契約した。

 しかし世間一般の物価が上がるのに伴い魚類の種類も増加し、最近は一部淡水の個所には鯉、その他川魚を飼育繁殖するようになり請負従業者の利潤は益々大きくなっている。


第38章 牟呂用水流材の便

 牟呂用水は一鍬田地内の豊川分水の所より牟呂村の南端で用水の捨杁口より柳生川口に注ぐまでの延長おおよそ6里余あり、初め毛利氏のこの用水開発に着手した時は地方の人民は喜こばず、争って苦情を提出し、一時は大変もめごとが大きくなったが、今やその局面を一変し該用水路は地方の幾多の利益に貢献するようになり、遂に山方の数ヶ村の流材用にまで利用されるようになった。


 三河国の南北設楽両郡の山方の数ヶ村より産出する重要物産の1つである薪(松材)は従来豊川筋の一鍬田まで流下し、同所より川船に積載して豊橋町、及び下地町等へ向けて運送する方法であったが何分積載量が極めて少量の軽船であったことと特に船数に限があったため流材を一斉に運送する方法がなかった。

 そのため、しかたなく一旦一鍬田に陸揚げし、都合のつく日時まで待ってから、ようやく川舟に積載する等、重複煩雑な手数を必要としたので輸送が渋滞する不具合だけではなく運賃が自から高まる不利益があった。

 特に何日もの長雨で水嵩が高い時は流材が豊川筋に散乱漂流して収容が非常に難しく、その損害は決して少なくなかった。

 著名な物産なのに販路を広げる方法が無く、これを挽回する計画として、山方村落の材木商同盟が団結し総代をもって該用水路を利用し薪材を流下させる方法を当方に願い出た。

 この流材の事は私人営業に関する利便とはいえ三河の重要物産の発展を図るこに有益なので速かに承諾した。

直ちに牟呂用水関係村落の八名郡長部村大字八名井、及び加茂、金澤の三村に対し本件交渉熟議の末、約定書を交換し流材の員数に応じて材木商団体より相当の料金を取立てて水路修繕費に充てる事等を契約し、本件認可の結果をその筋に出願して、明治28年9月に願意が聞届けられ関係者は大いに満足した。