第39章 から 第43章 まで
(下の5タイトル分をこのページに収録してます)
第39章 牟呂用水と水力発電
第40章 分水工事
第41章 土地工作に関する便利
第42章 米質品評会
第43章 樋管及堤防保護方法
第39章 牟呂用水と水力発電
牟呂用水が有効利用されるのは流材の利用だけではない。
今まで渥美郡の高師村地内の梅田川の水力を用いていた豊橋電灯会社は常に水力が乏しいのを感じていたので、牟呂用水路の大海津における高低が一丈余あるのを同会社は非常な熱望をもってこの水力を貸与してほしい旨を依頼してきた。
発電が世の中に与える利益は少なくないと考え協議の末、
該使用料を決め、これを承諾し明治28年9月にその筋に出願し許可を得て、同会社は発電所の移転をした。
以来、今日に至るまで終始好都合に運営されている。
なお、発電所より3丁程下流の所に、ほぼ六尺の高低があり、これを利用して水車事業を創設し、米麦製春(精米・精麦?)、及び小麦粉製造等をし、今なお盛んに運営している。
第40章 分水工事
前の数章にて詳しく述べた牟呂用水路は明治26年8月に井堰大破の後は新田築堤を急いだので、この方面工事と改良の進行時期が遅れていると感じていた。
明治29年11月の大雨で堰埭が破壊し30年中にこれが復旧あるいは改良の工事をしたが、31年6月の大雨には朝倉川と神田川の掛樋、その他全水路に渡り破壊し、その箇所は十余に及んだ。
工事中の半ばに再び同年9月の暴雨出水に遭遇し、ほとんど修理の暇なく被害が頻発したので、直ぐに復旧するのは不得策だと悟り、一旦総ての工作物の改善を中止し同年の末より32年に亘り昼夜工事を監督して、ようやく竣工することができた。
この間は非常に困難だっただけでなく、作業の費用は驚くような巨額になったが、このおかげで水量が大きく増加することになり、特に新田の塩分を年々除去すると同時に幾分の剰余水ができたために渥美郡の牟呂と花田と吉田方の3村より32年中に分水灌漑の希望が申入れられた。
明治34年3月に3村の用水普通水利の組合の設置を待って初めて完全な契約を締結し分水工事に着手し一部は同年より、他は35年より灌漑分与することになり、その反別はおおよそ420町歩であったが36年春には該組合の工事の全が完了し幾分の反別の灌漑が増加できた。
第41章 土地工作に関する便利
当新田の耕作地を区割し60間毎に用水路と悪水路とを一筋置きに、一筆の耕地は1町2反歩で用悪水の掛引き自在である。
また、悪水路の両堤防を道路にし、この悪水路の多くは船の通行に利用するもので肥料、及び藻草等を運搬するが、船が利用しない箇所は車道にした。
なお、住民に対し無利息で金を貸与し、船やその他の農具を買入した。
また、田起しするためには牛馬を使って耕やすのが最も効率が良く、田面は60間四方にて屈曲がないので牛馬の動きに都合好であるため、賃金も古くからある変形の田に比べれば5割方安価である。
しかし、賃金は年々立会の上これを決定することにしていて、牛馬で耕やす者には時々賃金を立て替え、小作人の都合により取立する方法や、牛馬で耕すのを希望する者に対し、お金を貸与し牛馬の買入を奨励したことにより、現在新田内に飼育される牛馬は50余頭におよんでいる。
第42章 米質品評会
明治32年以来、小作人の千数百名より納められる米額の内、五合づつを別に貯蔵して置き、翌年1月に郡の役人、及び郡農会員の立会の上、米質を審査し優等の者50名を選抜し、これを1等より5等までに分け賞状、及び若干の賞品を授けることとした。
渥美郡長の名をもって付与し米質の改良を奨励中であるが、現在は当初に比べれば格段の進歩が見られるようになった。
第43章 樋管及堤防保護方法
新田事業で特に注意を必要するのは悪水樋管の構造とこれらの保護の方法であり、特に保護の方法については常に慎重に対応する必要がある。
それは堤防の外面は海水の干満があり、突然意外な破損が生じたら、若い苗はたちまち海水の浸水により全て枯死してしまう。
当新田のように20有余服(対のこと?)の樋管が数ヶ所に散在しているので平素の注意を怠らず、1ヶ月1回から2回を特に所員が精密に
破損の有無を調査するようにしているが、この調査では不足が認められるので、35年中に各樋管の所在地に倉庫を建設し、内に非常時に必要となる材料の莚、縄、丸太、叺、砂利等を備蓄して、臨時の供給に充てるこにして、36年春に新田に住居の成年に達した17以上30歳未満の者にて水火災予防組合を組織し、樋管、及び各堤防、その他の被害に際しては、号鐘の合図と共に現場に集合し、応急の防禦を施すための設備を完了させ、毎年1回の仮設演習を実施する。