第29章 から 第32章 まで
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第29章 住民統理の三策
第30章 三策の実行(神社の新設)
第30章 三策の実行(学校の新設)
第30章 三策の実行(寺院の建立)
第31章 信用組合の設立
第32章 養老金及火葬場
第29章 住民統理の三策
当新田も毛利氏所有の当時から再三の堤防の破壊があったため、小作人が恐怖を抱いて、その農事を営む気力を失い世間の風評も良くないため、他の地に移住して行く者が多いだろうと心配していた。
しかし、人造石工事の堅牢と内部工事の設計の良さが知れ渡り、非常に高評価得たことにより世評が一変し、仲間と誘い合って移住してきて小作人になる者が追々増加し、戸数250余、人口はおおよそ1,380余名となった。
これらの人は概ね伊勢、美濃、尾張、及び三河各郡等より移住しに来た者で、要するに各自は郷里において希望も無く落胆、失望、困窮で転籍移住してきた者が多い。
一部には、以前住んでいた所で信用を失って住めなくなり、しかたなく当地に漂着して来た者など、しょせん浮雲の徒の集団と言われ、気に触ることが有ると乱暴したり、喧嘩等で相手に害をおよぼすことも少なくなかった
このような乱暴で荒っぽい者に退去を命ずると益々悪化し、犯罪者になってしまうと、その家族を飢えさせ苦しませるの見るのは人情として耐えがたい。
そのため、これら社会の徳義を教え無知蒙昧の者を教育して、住民の平和を図ることにより良民にするためには、必らず宗教と教育の2つをもって統率しようと考えた。
その具体策は次である。
第一、神社を新設し我瑞穂国の皇祖大神を奉祀して皇統からの連綿たる君主を崇敬し、併せて報国盡忠の念を
起させる事
第二、学校を新設し学芸を奨励し学齢に達した児童を全員就学させることと、教員より道理にうとい農民のた
めに戸籍やその他に関する願い届や伺い届等を仲立ちしたり、衛生上の注意を説くなど
第三、寺院を建立し、高徳の僧に住職をお願いをし、日となく夜となく農民の寸暇を計り、一堂に会して応報
因果の道理を説き、善悪正邪の分別を教え、なお国法徳義がどのようにものか、また地主と小作人の
権利義務等を説き老若男女に道理を理解させる。
以上の3条を実行することにより新田の居住民を統率すれば、次第に風紀が守られるようになり、遂には社会に誇れる良民にする。 この方策の3件をもって当新田住民の意識改革の大方針と定めた。
第30章 三策の実行(神社の新設)
内宮の境内は1,500坪あって鳥居、石灯篭等を備へ、おごそかにして松や杉が繁茂し、外宮は150坪づつで、お社、その他総て内宮と同じである。
第30章 三策の実行(学校の新設)
次に第2策に着手し、明治28年3月中、牟呂村に相談し尋常小学校を設立しようとしたが教育事業は村を治める上で非常に重大であり、またその他の関係上容易に計画が進まなかった。
ようやく29年3月に村立神野尋常小学校として認可設立できて該校に関する全般の教育費を寄附し、同時に生徒の授業料を全免し、明治29年5月に開校し授業を開始することができた。
しかし、居住民の多くは元より教育の必要性を理解してなく、恵まれた環境の学校を設けたにもかかわらず入学する者は非常に少なかった。
この状況に困り改善の手段を一層進め、子弟に要する雑費の供給は通学生の精勤賞興、あるいは父兄の訓戒等、種々の方法を取り入れて与えた。
そして、明治33年頃になると生徒数はようやく増加し学校に関する設備を完備するまでになった。
しかし、教育費の支払いは村治の関係上、組織として住民に対して不利益な場合が起こったため、不幸にも数年間頑張ったが、放棄し一時休校することになった。
そして後日に村の政治の改善ができたら、なお一層の完全な教育機関を目指すことを考えて、遂に35年3月に休校した。
住民の子弟は従来より牟呂村に存在していた小学校に通うことになり、村教育費用を補助するため、年に金百余圓の寄附をすることにした。
第30章 三策の実行(寺院の建立)
第三策については明治23年中、豊橋大谷派別院より当新田に新設した説教所は、毛利新田の時の明治25年の破堤に際し全て漂流し、その後牟呂村の本村地内に移し、以来同派豊橋別院より毎月一度僧侶を派遣し説教会を開いていたが、住民の多くは散乱しており、説教の聴聞に来る者がいないため説教会を減らすことになり、結局は有名無実の状況となっていた。
そのため大谷派本山執事の渥美契縁師等に寺院建立を相談すると
師も大に賛成したが、何分寺院建立をするには現在の規則では容易に許可が得られない。
しかし、幸に京都府の伏見に無住で廃寺同様なった圓龍寺という寺院があり、その寺籍を譲受け、その後に寺院移転の認可を得るのが都合が良いとの話となり、豊橋別院の輪番船見の惠眼師に協議を試みた所、惠眼師も大にし賛成し、渥美契縁師等の所説は筋の通った良い方法なので進めようとの意見であった。
それぞれ協議して以前の大谷派説教所を廃止し、更に土地の準備として新田内の字(つ)の割に寺院の境域を2,000坪と定め、惠眼師を圓龍寺の住職として該寺を当方に移し、又そのお堂を初め一切の建物、並びに永代維持金等は都で寄附することと定め、明治28年9月上に趣旨を京都本山、及び京都府と愛知県庁へ出願して、29年8月31日に移転の許可を受け、同時に管長に請いして一躍した別除音地の寺格を得ることになった。
以来、仮堂宇をもって住民はもち論、附近村落の信徒のため、時々名僧を招いて宗教の普及を図り、人心を改善することに勉めた。
その成果は近年では大いに成功したため寺院の新築を決断し、明治32年径3尺の梵鐘を鋳造し、鐘楼を新築した、又同年より本堂始め材料集めに着手し、詳細は次のようである。
・本 堂 1宇 奥行 15間 梁行 12間 ・鐘楼堂 1宇
・庫 裏 1棟 ・玄 関 1棟
・書 院 1棟 ・その外廻廊初め附属の建物
以後、成工を急いだが、巨大な木材等を運送する事が容易ではなく、明治34年10月16日に地鎮事、及び起工式を挙行し、明治35年10月13日に立柱式を行った。
この間、日に数百の役夫を監督し工事を大きく進行し36年4月15日を期して上棟式を執り行い、引続き工事に関わる全てを取急ぎ、仏前の飾りを初め一切の備付に至るまで全て揃え、37年4月15日をもって遷佛供養会を勤めた。 居住者の慶びは言葉では表せないほどであった。
第31章 信用組合の設立
産業組合の一つである信用組合の設立については、その起源は数年前からで農民移住の当初より既に必要を感じていた。
貧しい人民に貯蓄をさせるのは、一定の規則で束縛し、生活に必要以外の方法で得たお金を蓄積させる以外の方法は無いと思い、明治31年中、組合の方針を立案した。
組合は神野新田信用組合と称し、農民が一日の業務を終った後
夜業として一把の縄、又は一足のワラジを作らせて、1ヶ月の末にこれを購求して、その半額、または1部の一定限度以上の金額を貯蓄するようにした。
しかし往々に怠ける者がその規則に背いて活動が実行困難なり、一時は活動が大に衰退したこともあるが、あらゆる手段で諭してわずかに持続してきた。
その後の明治34年に産業組合の発布があり、その規則が当組合の組織に適合するかを全組合員で討議し、35年の春に出願の上、無限責任神野新田信用組合として許可を得て、同年7月23日に設立登記をした。
第32章 養老金及火葬場
当新田の居住民は徳義等が理解できてなく、家に老父母がいても尊敬し養うことを知らなかった。
これは結局、悪い習慣とは言え、ひどい貧乏が原因であるため、矯正を図り彼等に親孝行が何んであるかを教えれば、古くから伝えられている養老の典に見習って高齢の者には特別の恩恵を与えれば団体風紀において大きく進歩すると考え、明治28年2月より、養老の典を実施することにし
その決まりは次の通り。
毎月三十日をもって新田居住民の中の高齢者へ養老手当として、次の割合により全員に惠与する。
年齢 七十歳以上 1ヶ月毎に 金25銭
同 八十歳以上 同 金50銭
同 九十歳以上 同 金 1圓
同 百歳以上 同 金 2圓
前記の養老手当交付の時は必ずその子弟を召いて厚く訓戒を加え、良く老者を崇敬し慰養するようにと説示することとした。
また、年々移住民が増加しているため、火葬場を設けて遠路送葬の苦労、及びその費用を省減する必要を感じ、明治28年7月中、その筋に出願して字(り)の割に火葬場を新設した。