第6章 から 第11章 まで
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第 6章 築堤工事の成工附 県庁の監督を解く
第 7章 築堤後の毛利新田
第 8章 大震災と毛利新田
第 9章 毛利新田最後の大破損
第10章 毛利新田売却の議決
第11章 築堤に関する諸説(甲の説)
第 6章 築堤工事の成工附 県庁の監督を解く
毛利新田の築堤工事は実に度々の災害に会い、既に三回の修築後も災害を受けたにも関わらず、一同は勇気をふるい立たせ工事を遂行し明治22年12月をもって第4次の澪留を終了した。
以後、今まで以上に精進し対応した結果、翌23年5月をもって困難を極めた築堤工事を全で完成した。
ここに起工の順序と堤防地域及び字号の延長、幅員等下記に示す。
牟呂村に属するものは、面積おおよそ900町歩で下の5堤防で新田を守る
第1号堤防 延長 850間
第2号堤防 延長 260間
第3号堤防 延長 1,230間
第4号堤防 延長 2,100間(大堤防トモ云)
第5号堤防 延長 505間
牟呂、磯部、大崎三ヶ村に属するものは、面積おおよそ200町歩で次の2堤防で新田を守る
柳生川堤防 延長 1,260間
大手堤防 延長 524間
以上を併せて吉田新田と命名するが、一般的には毛利新田と呼ぶ。
明治20年12月初めに海面築工の新田開墾の許可を受けてから23年5月の3年間、用水路工事に関する苦情等や築堤工事が波浪で再三大破し漂流被害を受け、人命を失うことなどで、数十萬円の工費が余分にかかった。
しかし、毛利氏を始め関係者もすごく悩み苦しんだが、工事の竣工を迎え晴れ晴れとした気持であったた。
愛知県庁は毛利氏の願いにより本来民間企業の工事であったものを、官庁において取扱うことは規則上差支えが少なくないのと、工事も最重要部分は既に完成したので、民間企業の人材でも監督するのは難しくないと判断し、明治23年3月3日をもって愛知県庁は一切の工事監督の委任を解き、全てを毛利氏に引継ぎ、毛利氏は以降の監督に桑原爲善氏を任命した。
第 7章 築堤後の毛利新田
築堤と用水工事も既に完成したので、反別1,049町3反7畝歩の内104町3反7畝歩を道路、用水路、堤防、汐除等に据置き、残リ945町歩を民有地に下げ渡すことを出願し、明治23年7月5日に許可が出た。
そして同年に田の試作として新田内の牟呂村本村の附近にて数町歩の土地に稲の苗を植付けた。
初めての耕作にもかかわらず相当の収穫があり、
小作人より初穂米として玄米100俵が毛利氏に納められた。
また新田内の養魚税を明治23年より同25年に至3年間で金3,700円と決めた。
その後、明治24年1月31日年付をもって新開墾地の租税免除をその筋に出願し、同年4月14日付をもって明治23年より向こう50年間を租税免除とするとの指令があった。
更に同月17日をもって免租年期50年を経過後に田畑等作付反則があれば更に20年間、その他不毛地に対しては更に相当の年期間を免租との出願すれば、願出の内容により検討するので、その折に出願せよとの指令があった。
第 8章 大震災と毛利新田
明治24年10月28日、かの有名な濃尾震災が起こり数万人の人が亡くなり、数千の家屋が破壊され、田には亀裂が入り、川や沼の水はあふれ出て、人々はその惨状に恐れおののいた。
三河国の被害は濃尾地域程ではなかったが、それでも被害の個所は決して少なくない状況であった。
毛利新田も堤防が崩壊し地盤は亀裂が入り、澪留跡は8尺から
9尺の陥落が見え、また各所より潮水が勢いよく浸入し、諸役員は必死となって住人などを指揮して一時の防御はできた。
しかし、修繕は一朝一夕の作業で完了するようなものではなかった。
その年の田の植付は350町歩であり、塩分が多ければ収穫量は少なく、塩分が除去できれば相当量の収穫が見込めるので場所によって収穫量は一定しないが、おおよそ900石の収穫は確実と推測された。
そのため小作人も期待し、遠方からも続々と新田に人が集まり増加し、翌25年を心待ちにしていた。
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濃尾地震の再現シュミレーション動画
第 9章 毛利新田最後の大破損
明治25年の春になると小作人の移住が増加し130余戸と多くなり、土地も整備した結果、田面総計570余町歩に植付できるようになった。
特に当年は降雨が多くて用水が十分であったことと、潮止後すでに三年経過していたため、塩分がほとんど除去されていたので豊作が確実視されていた。
早稲は日を追って美しい穂が出て、地主も小作一同も数千石が
収穫できるとの期待で大いに満足していた。
しかしまたしても天災が、明治25年9月4日に暴風に加え豪雨となり潮水を押上げて大堤防の内にある前年震災で崩壊した所を初め、柳生川筋からも潮水が浸入して、逆巻く波が新田内に氾濫し、130余の人家が押流され、住民は浮きつ沈みつつ、あるいは流木にしがみついて助かった人や怒涛に巻き込まれて水底の藻屑と消えたりと、むごたらしい惨状となった。
この惨状を目撃した岩本、桑原の両氏、及び新田事務所員一同は途方に迷い、ただ茫然としていた。
そして小作人等は親を失い、子供を亡し、あるいは夫婦は分かれ分かれ、兄弟離散、家屋はもちろん家具や食糧等全てを波に奪い去られてしまった。
幸い助かった者も命をつなぐ術がなく、事務所に来て救助を懇願する以外になかった。
事務所においても金や穀物を貯蔵してあるわけでもなく、わずかに薄粥を作って急場をしのいだ。
そして一両日が経過した後、村役場の申告により郡役人が出張して流失の家屋や死傷者の人員等を調査して県庁へ報告した。
報国を受けた県庁は直ちに救済のお金や穀物を支給し、仮の小屋を作って生存者の保護をした。
震災被害は極めて悲惨だったので、人々は大に恐怖を感じ、この地に留まって新田が修築のを待つ人は無く、大部分の者は絶望して落胆し、遂には散るように別の地域に出て行った。
第10章 毛利新田売却の議決
前章で記述した大破損について監督の桑原爲善氏は山口県毛利氏の許可を得て被害の実況を詳細に報告し、至急対応策について相談した。
しかし、既に再三再四の災害にあい、その都度修築してきたが、今回の大破壊と特に多の人命を失ったのが致命的となり、今後も到底良い結果が望めないので、再築する意思も無くなり、ついに25年12月に新田を桑原名義に書替えて登記変更をした。
明治26年春なり崩れるままの放置していた堤防は、更に荒廃を重ね、ほとんど工事の跡が無くなり潮水がはてしなく広がった海原に戻っていた。
当時、毛利氏は新田を売却することを決意していて、人を東西に派遣して売却を進めたが、起工以来の経歴を聞およんでおり、誰も買取りたい言う人も無く、大変困っていた。
私は毛利新田の購入を検討し現地を検覧をすると、これまで述べ来た各章にあるよう新田の大堤防は真西に面しているのと堤防の延長が1里余に亘っており、波浪の衝擣が強烈なので築堤が容易ではないことを知った。
しかし、九州巡游の途中で視察した宇品港で人造石工事を一覧したことを思い出し、これを毛利新田の築堤に応用すれば堅固で永く耐えて必ず好結果が出ると思い、遂に新田地籍全部、及び用水路の全体を買入れることとし、明治26年4月15日をもって該当の登記の手続を完了した。
第11章 築堤に関する諸説(甲の説)
新田堤防の築工方法については議論が紛糾したが、争点の主なポイントは次の通り。
(甲の説は)・・・開拓面積縮小派
旧堤防は大手長が長過ぎて到底永く維持できるとは考えられないのと、
土地が広く堤防に進むにしたがって地面が低下しており、そこに溜まり
水が常に残っていて良い田にはなり得ない。
区域を縮小し、第三号堤防の延長1,230間の内、その西端の150間を
切り捨て、第四号堤防の位置を移して、第三号の一端より、東北明治新田の八間川の川先に達するように築堤して第五号堤防を放棄するべきだ。
毛利の時と同じように築堤すれば、豊橋以下の悪水を排水するためには、桶門5ヶ所、また第五号堤防にも桶門2ヶ所が必要になり、かかる費用も少なくない。
前述のように反別を減縮して築堤すれば、大手の方向に於いて、西風を避けられ堤防も強固となり、永遠に維持もでき全て良い田のみとなり、非常に好都合である。
かつ人造石による堤防工事は決して永遠に維持はできず、直ちに亀裂が入ったり、激しい波により崩壊されるか、寒気により凍損して遂には粉砕するであろう。
現実として、横浜港は熟練した内外の技師により設計したのにもかかわらず、今や亀裂が発生して世間の非難を受けているのに、服部長七が発明したという人造石は効果が望めるのか?
今まで人造石で筑成した西三河の高浜村の新田の堤防は、築工後に早々と亀裂で崩壊し、今やその外法に土と石にて押さえてようやく維持している状況であることから、人造石の信ぴょう性は無い。
今回の工事となると高さ一丈八尺、外法り四割五分、内法り一割五分、馬踏二間半、捲石一尺五寸、二重粘土張りによって築堤するという大工事であり、人造石では無理である。
牟呂村の住民は以前より大手堤防が正西に面して築かれているために、たびたび危険に会うことは覚悟をしていたが、堤防設計が非常に無理であると非難していた折でもあり、大いに甲の説に賛成した。
また、毛利の設計にも携わり、最も有名な技師の一人であった岩本賞寿氏は反別縮小説には大いに反対し、原形のまま築堤すべきと主張したが、人造石の工事の一点に関しては甲の説に賛成した。
理由として、愛媛県三津浜の人造石工事の視察をして、ある点に於いて不完全を見つけたとを上げた。
しかし、人造石で完全無欠に築港された広島県宇品港等を参考にしようともしなかった。
また、愛知県庁や渥美郡役所等は全面的に甲の説に賛成し、県下の諸新聞も甲の説に賛成するものが多かった。
そして、反対の意見に対して甲の説で反論した。